自分の親・中高大の同期との会話で幾度となく話す、「会社飲み会は面倒くさいよね」トーク。
この「半分悪しき習慣」の意味合いを文化を跨ぐことで見直すことになりました。
ノミ二ケーションが薄れたとはいえ、仕事後の1杯の重きはまだまだ健在と言わざるを得ない。一方で嫁の文化圏では、仕事後になぜ家族のもとに帰らない・帰れないのか真剣に理解できない!!!
入社以前から交際を始めていて、僕がよく飲みに行くことも・夜帰らないことが多い事を知っていた嫁。夜な夜な飲み歩いては、朝ごはんを作って一日のあいさつなんてことがあったけど…
会社員となって飲む相手・理由が「公」となるととたんに、飲みで帰宅が遅くなる必要性をなかなか理解してもらえない。
部長からの付き合いの悪さを腐され、嫁からの「家に帰ってこい、家族の時間を過ごすぞ」の圧を受け、入社~2年目までは平日 4時以降が憂鬱で仕方なかった…。
そもそも海外の男たちは仕事飲み歩かないのか。
嫁の国では、仕事後の時間は”100%”家族・個人の時間!
上司・同僚・後輩 会社に関わる人間との飲み会は仕事の延長。同席者の間で仕事メインの会話でなくても、時間を使う相手が会社の人間なら、実質会社付き合いとしては仕事の延長じゃないか!と。
嫁の主張(僕から見た)
仕事はなんのためにあるの?生活のために仕事をしてて、仕事を充実させるために生活の時間を失うのはおかしいよ。
嫁
仕事なんてさっさと終わらせて、洒落たレストランで仕事終わり 夫婦でお食事がしたい。旦那(嫁はこの呼称を日本社会らしくてネタとしてよく使う)に思い描く姿は、仕事バリバリ・家族時間を最優先にした100点のバランス保持者。
嫁の主張(彼女の本音)
嫌々行く、飲み会っておかしい。帰宅するたび、飲み会の文句を聞かされて、そんなに苦痛な時間を夫が強いられていることに怒っていたのでした。なぜ生活が仕事に侵されるのか!!。
会社飲み会を愚痴る
僕は常々、楽しそうに会社飲み会を語る人に会ったことがありません。それが当たり前で、会話の”あるあるネタ”としてむしろネガティブに語ることが求められるトピックなんだと無意識に考えていたと思うんです。そしてそんな飲み会に夜な夜な通うことが、仕事をする男の当たり前で、自分もそんな一員となることに成長を感じていたような…。
あぁなんてダサい。
飲み会に行くことでどうせ家庭で発散できない、仕事の悩みを日本語で話す(発散する)ことができる気楽さにありがたさを感じていたんです。同時に会話の努力を放り投げてしまったことにうしろめたさを感じて、飲み会を”悪”とすることで、嫁の機嫌を取っていた。(僕は嫌々 飲み会に参加していて、ほんとはもっとあなたと時間を共有したいんだよ…と。)
対話の努力ともどかしさ(対話に疲れていた自分)
僕の家庭は共通言語が日本語です。常に嫁が日本語を使ってくれて僕は他言語を使う必要がほとんどありません。相談も喧嘩も嫁におんぶに抱っこ。なんてありがたいことか。
ただ、難しいテーマや同じ文化圏で育てば阿吽の呼吸でわかるトピックは避けてきた。これって関係が長期的になればなるほど致命的だなと、交際5年を超えて一層強く感じます。
でもそれって、パートナーが外国籍でなくともおんなじように惰性・対話を諦めたときから関係の終焉は始まるのではないか…。
僕たちは文化の共通性・言語の壁がある以上、馴れ合いが通用しない。常に共感と親和性を探し続けないと共存できない。日本の慣習を楯に「夫婦であることの面倒くささ」から逃げるを止めないと、と強く感じました。